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「正解はない」「マッドマックス 怒りのデス・ロード」

僕は「○○に正解はない」という物言いが嫌いである。

「○○に正解はない」という物言いをするとき、恐らくそれは大体間違ってはいない。というより、世の中は明確な正解のある分野の方が少数なのだから、あてずっぽうにあらゆる物事に対し「○○に正解はない」と言ったとしても、その多くは間違ってはいないということになるだろう。

僕が嫌いなのは、この言葉の使い方、運用の方法についてである。

例えば、映画の感想を誰かと話し合ったとする。あるシーンの解釈について意見が割れたときに、ふと相手の口から「まあ、映画の感想に正解はないからね」という言葉が出てくる。この瞬間に僕は力が抜けてしまい、もうこの事柄について話せなくなってしまう。

確かに映画の感想に正解はない。正解はないが、正解がないということは「全ての映画の感想は間違っている」ということだろうか。あるいは「全ての映画の感想は正解―不正解の尺度とは無縁であり、等価である」ということだろうか。人が「○○に正解はない」というとき、その「正解はない」は何を言い換えた言葉なのだろうか。

僕はそういった安易な相対主義というか、思考を停止して自分を守る言葉によって曖昧なままに腐ってしまった物事をいくつも見てきた気がする。具体的に挙げろと言われると急にパッとは思いつかないのだが、なんとなくそんな気がする。

 

(こういう抽象的でフワフワしたことを僕がブログに書いてると『闇金ウシジマくん』の宇津井のブログっぽくてちょっと辛い)

 

今更『マッドマックス 怒りのデス・ロード』について話すことはもうあまり残されていない。良い映画で、僕も2回映画館で観た。アクションの良さは勿論のこと、リベラルや宗教の観点から読み解いても面白いし、良い感想は大体出尽くしていると思う。

でも僕は怒りのデス・ロードで一番好きな所は、そういった様々な要素ではなくて本筋、ストーリーが好きだ。

観たのがもう1年以上も前なので、細かい部分は大分忘れてしまった(僕は映画や本などのあらすじは時間が経つと殆ど覚えていない。それどころか、つい数年前の大学院生時代のことすら何かきっかけがなければなかなか思い出せない。思い出すという行為自体が苦手なのだ)が、大体こんなシーンだった気がする。

物語も終盤に差し掛かった頃、ついにフェリオサの故郷「緑の土地」のあった場所へ辿りついたマックス一行。フェリオサは故郷のあった場所へたどり着くが、そこは汚染され荒廃した土地であった。泣き崩れ、慟哭するフェリオサ。フェリオサ達は更に先を目指そうとするが、マックスは「砦に戻ろう」と決断する。

このシーンで重要なことは、この時点でのマックス達にはイモータン・ジョーを倒す作戦なども一切なく、砦に戻るということは今まで多くの犠牲にして故郷を目指してきたことは一切の弁解の余地もなく「無駄なことであった」と認めることを意味することである(フェリオサ達はそれが認められなかったから最初は更に先を目指そうとしていた)。生き延びるために、こっちはダメだったから、ただ来た道を戻ろうと言っているのである。

マッドマックス 怒りのデス・ロード』の原題は『Mad Max : Fury Road』という。「Fury」とは激しい怒りを意味する単語であり、復讐の女神の名前でもある(フェリオサの名前の由来もこの単語である)。またそこから転じて、戦争や暴風雨の激しさや猛威を意味する。

フェリオサが何の成果も得られずすべてが無駄であったと認め、戻る道へと一歩を踏み出すとき、その道はどのように見えていただろうか。恐らく、それは故郷を目指すときに遭遇した砂嵐や竜巻などよりももっと激しい嵐が渦巻く、困難な道に見えていただろう。タイトルの「Fury Road」とはこの道を指しているのではないかと思う。

(この後、なんやかんやあってイモータン・ジョーは死に砦には平和が訪れハッピーエンドになるのだが、それはこの映画はあくまでエンターテインメントでなければならない都合であって、お話としてはフェリオサがその一歩を踏み出す瞬間で終わっているし、あとはエピローグみたいなもんだと思う)

 

僕もまた、この困難な道の前に立たされている。大学院まで通い目指していた資格試験は恐らく無理だと分かり、諦めた。仕事も職歴もないアラサーで、何も持っていない。その一歩は踏み出したものの、まだ足取りは重い。

 

まあ、映画の感想など人それぞれで、正解はないのだが。